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高野山かなり完璧ガイド

つるたこうじ ぼひ
鶴田浩二 墓碑

俳優・歌手であった鶴田浩二の墓碑。1987年(昭和62年)没。
位牌は高野山の大圓院にあります(情報元 Wikipedia)。
鶴田浩二は戦時中に整備士として特攻隊員を見送っており、また歌手として「同期の桜」を歌っていますが、この墓碑のすぐとなりに海軍第十四期飛行予備学生戦没者慰霊塔「同期の桜」の塔があります。

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そがきょうだいと ちち かわづさぶろうのくようとう
曽我兄弟と父可津三郎の供養塔

曾我祐成(そがすけなり)と曾我時致(そがときむね)の兄弟と、その父、河津祐泰(かわづすけやす)の供養塔。
河津三郎祐泰とも。相撲の決まり手「かわづがけ」の語源となった人物です。

曾我兄弟の仇討ち(Wikipedia)


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ゆうづうねんぶつしゅう ほうみょうしょうにん くようとう
融通念仏宗 法明上人 供養塔

高野山で修行を行った融通念仏の僧、法明上人 の供養塔です。(※開祖ではありません)

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もりちゅうじょう ただまさ ぼしょ
森中将 忠政 墓所

森左近衛中将忠政とも。森蘭丸とは兄弟です。

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かんとうだいしんさいとうじのとうきょうしちょう ながた ひでじろう ぼしょ
関東大震災当時の東京市長 永田秀次郎墓所

参考:永田秀次郎(Wikipedia)


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しんらんしょうにん えんじょうかねざねこう かくしんに ぼしょ
親鸞上人圓證兼実公覺信尼墓所

親鸞の7人の子供のうちの末娘、覚信尼(かくしんに)の墓。
推測ですが、「圓證兼実」は九条兼実(くじょうかねざね)の法名である「円証」、読みは「えんじょうかねざねこう」あるいは「えんしょうかねざねこう」かと思います。

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くまがいなおざね・たいらのあつもり くようとう
熊谷直実・平敦盛 供養塔

熊谷蓮生(くまがいれんしょう)とも。蓮生は法名。
見つけづらい場所にあります。
2017年5月時点で、それと分かる案内標は建っていないようです。
一の橋の入口から歩いて、参道が2つに分かれる場所で右側を進み、ふたたび合流する手前。左側のやや高い位置にあります。
「親鸞上人圓證兼実公覺信尼墓所」の右隣にあります。

参考文献:「高野山ガイドブック」(総本山金剛峯寺 発行)

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むさし いわつき おおおかけぼしょ(おおかえちぜんのかみ)くようとう
武蔵 岩槻 大岡家(大岡越前守)供養塔

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いよ こうのみちなお ぼしょ
伊予 河野通直墓所

河野水軍で知られる河野氏。右側が河野通直の母親、左が河野通直の墓です(情報元[1])。

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8だいしょうぐん よしむねこうのぼしょ
八代将軍吉宗公之墓所


2015年もしくは2016年に「八代将軍吉宗公之墓所」の表示が掲げられました。
それ以前は、葵の御紋が描かれたものは置かれていました。
なぜ「大川家の墓」の場所にこの表示があるのか不明です。
この墓に問合せ先の電話番号も掲示されています(が、問い合わせていません)。

2枚目の写真は、昭和52年(1977年)9月に撮影したもの。同じ場所で撮影したものかは不明です。

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ただのみつなか ぼしょ
多田満仲 墓所

源満仲(みなもとのみつなか)とも。平安時代中期の武将。
供養塔は全国7ヶ所ほどにあるようです。
また、夏目漱石は源満仲の弟の末裔とのこと。
(情報元:wikipedia)

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きしゅう しょだいはんしゅ とくがわよりのぶ ぼしょ
紀州 初代藩主 徳川頼宣 墓所

徳川家は日蓮宗だったので、密教の五輪塔は使わなかった可能性があるとのことです(情報元[1])。

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まいにちしんぶんしゃ5だいしゃちょう もとやまひこいちのはか
毎日新聞社5代社長 本山彦一の墓

大阪毎日新聞社の元社長。「松蔭翁三十三回忌」と刻まれた碑が立っていますが、本山彦一の号が「松蔭」だったようです。

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たけだしんげん・かつより ぼしょ
武田信玄・勝頼 墓所


武田信玄とその息子、武田勝頼の墓所。
石門の奥に並んでいる苔むした2つの墓です。左の大きいほうが信玄、右の小さい方が勝頼の供養塔です。
武田信玄のほうは最初に3回忌のときに建てられたそうです(情報元[1])。

上段の写真は2012年、下段は2016年撮影。

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きしゅうとくがわけ7だい むねのぶぼしょ
紀州徳川家7代 宗将墓所(紀州徳川家 供養塔)

紀州藩の第7代藩主、徳川宗将(とくがわむねのぶ)墓所。
紀州家は五輪塔を立てていないそうです。

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うえすぎけんしん れいびょう
上杉謙信 霊廟

重要文化財。
上杉謙信、景勝の廟で、桃山建築の影響を受けているとのこと。中に位牌が入っているそうです。
この場所からは見えませんが、武田信玄の墓と向い合せの位置関係で建っています。(情報元[1])
2017年7月4日から2018年3月31日までの期間をかけて檜皮葺き替え工事が行われました。写真は2017年の工事前に撮影したものです。


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よどどの(ちゃちゃ)・とよとみひでより
淀殿(茶々)・豊臣秀頼

上杉謙信の霊屋から左にすすむと崩れている五輪塔があります。
右側が豊臣秀吉の側室である淀殿(茶々)、左側が豊臣秀吉の3男である秀頼の墓。ガイドマップにも載っていません(2015年現在)。(情報元[1])

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きしゅうとくがわけ みつさだ つなのり よりもと むねなお ぼしょ
紀州徳川家 2代光貞 3代綱教 4代頼職 6代宗直墓所

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じょうしゅう たてばやし さかきばらやすまさ ぼしょ
上州 館林 榊原康政 墓所

上州は今の群馬県。

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あわ とくしま はちすかけ(はちすかころく)
阿波 徳島 蜂須賀家(蜂須賀小六)


中央の大きい五輪塔が蜂須賀小六の孫、蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の墓。
蜂須賀小六の墓は右側にある小さいもの。五輪塔ではなく、宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
以前は鳥居もあったそうですが、2000年頃の台風で崩壊したとのことです(情報元[1])。


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こばやかわたかかげ・といだのおおかた
小早川隆景・問田大方


一番右側とその隣が、小早川隆景夫婦の墓。ガイドマップに載っていません。
右(定延家累代之墓の奥)が、小早川隆景。
左(池田家と書かれたものの奥)が正室である問田大方(といだのおおかた)。(情報元[1])

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だてまさむね ぼしょ
伊達政宗 墓所

伊達政宗一周忌のときに立てられた五輪塔。この五輪塔の周囲には後を追って殉死(切腹)した20人の墓があります。20人もの殉死の墓があるのは奥の院では珍しいとのこと。
奥の院内に伊達家は2ヶ所あります。

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いいかもんのかみ れいおく(いいなおすけ ぼしょ)
井伊掃部頭 霊屋(井伊直弼 墓所(廟))

井伊直弼の霊屋。「掃部頭」は井伊直弼の官位の名称です。
見つけづらい場所にあります。
「中之橋霊園 この先200m」の看板の近く、参道左側です。

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びんごふくやま みずのけ4だい かつたね ぼしょ
備後福山 水野家4代 勝種墓所

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ほりおよしはる
堀尾吉晴

豊臣秀吉の「三中老」という役職についたうちの一人。
海軍整備科の碑の奥にある古い五輪塔です。
堀尾吉晴は中央のもの。両脇のは2代目、3代目のもの。
堀尾家と仲の良かった山内一豊の五輪塔が近くにあります。元々、周囲に柵があったものが今は無くなっているとのことです(情報元[1])。

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さつましまづけ しょだいいえひさ 2だいひさみつ つなひさ ぼしょ
薩摩 島津家 初代家久 2代光久 綱久 墓所

真ん中の大きなものが島津家久。「4番石」と呼ばれる奥の院で4番目に大きい五輪塔。
島津綱久は2代光久の長男で、父より先に亡くなった人物です。

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あけちみつひで ぼしょ
明智光秀 墓所


明智光秀の墓、首塚、胴塚は全国に8箇所ほどあるそうです。
織田信長の怨念によって、五輪塔を何度立てても割れてしまうという伝承があります。
明智光秀を示す銘文がなく、あくまで伝承で光秀の墓といわれているとのことです(情報元[1])。

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いしだみつなり ぼしょ
石田三成 墓所

石田三成が30歳のときに生前葬をして建てたもの。
天正18年(1590年)当時ではこの五輪塔が一番大きかったとのことです(情報元[1])。

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きしゅうとくがわけ 8だいしげのり 9だいはるさだ 11だいなりゆき 12だいなりかつ ぼしょ
紀州徳川家 8代重倫 9代治貞 11代斉順 12代斉彊 墓所

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いせくわなじょうしゅ ほんだただかつ ぼしょ
伊勢桑名城主 本多忠勝 墓所


右から2つ目の大きなほうが本多忠勝の宝篋印塔。
その左の小さい方が奥様のもの(情報元[1])。

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なんかいでんてつそうぎょうしゃ まつもとじゅうたろうおうのはか
南海電鉄創業者 松本重太郎翁の墓

南海電鉄の前身、阪堺(はんかい)鉄道の創業者、松本重太郎の墓。
石ではなく青銅製だそうです。
電車を利用して高野町を訪れる場合、南海電鉄高野線に乗ることになります。

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しょだい いちかわだんじゅうろう ぼしょ
初代市川團十郎 墓所

元禄17年(1704年)没。舞台上で役者に刺殺されたといわれています(情報元:wikipedia)。

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うしゅう やまがた もがみよしあきこう ぼしょ
羽州 山形 最上義光公墓所

まえだとしいえとまつのはか
前田利家とまつの墓


右側(?)が前田利家の宝篋印塔。2010年頃発見されました。
くずれかかっているものが、夫人のまつのもの。
ガイドマップに載っておらず、案内標も立っていません。
まつが100カ日法要をしたとき生前葬をしたそうです。(情報元[1])

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しんらん ぼしょ
親鸞 墓所


高野山は真言宗ですが、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞のように他の宗派の人物の墓もあるのが興味深いです。
上段の写真は2011年撮影。
2015年(平成27年)9月の台風18号により損壊、その後ブルーシートがかかった状態(下段の写真)になっておりましたが、2017年(平成29年)10月8日に修理が完了し落慶法要が行われました。
情報元:高野山 西禅院(facebook)


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きょうけのぼしょ
姜家之墓所



パチンコ業界で財を成した姜家の墓と聞いておりますが、確認がとれる情報が見つからなかったため詳細不明です。
2017年時点で、墓銘碑には何も刻まれていません。


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はなびしあちゃこくひ
花菱アチャコ句碑

漫才師、花菱アチャコ(昭和49年/1974年没)の句碑。
1970と刻まれていますが、没後に建立されたものです。


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すうげんいん(とくがわひでただふじん)ぼしょ (ごうひめ)
崇源院(徳川秀忠夫人)墓所(江姫)

浅井長政の3女であり2代将軍秀忠の妻である、江(ごう)の石碑。
墓石の高さは6.6m。一番下の基段は畳8帖ぶんの大きさ。
「一番石」「一番碑」と呼ばれ、奥の院で最も大きい五輪塔です。

寛永4年(1627年)、江の1周忌のときに建てたもので、建てたのは弟の忠長。
江の戒名である崇源院殿(すうげいいんでん)と刻まれています(情報元[1])。

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てんじゅいん せんひめ くようとう
千姫 供養塔

豊臣秀頼・本多忠刻の正室、千姫の供養塔。
母親である江の墓の近くにあります。
天樹院は号(本名とは別に使用する名)です。

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きょうごくたかつぐ
京極高次

京極高次の宝篋印塔(ほうきょういんとう)。2015年時点でガイドマップに掲載されておらず、案内標も立っていません(情報元[1])
浅井長政の宝篋印塔の近くにあります。

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あざいながまさ
浅井長政

浅井長政の宝篋印塔。案内標もなくガイドマップにも載っていません(2015年現在)。(情報元[1])
赤く塗られたお地蔵さん「お化粧地蔵」が目印です。
「大津籠城戦死者追悼」の奥の木の脇にあります。

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まえだとしなが ごりんとう(かが まえだけ くようとう)
前田利長 五輪塔 (加賀前田家供養塔)

「三番石」または「三番碑」と呼ばれ、奥の院で3番目に大きな五輪塔。



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かが まえだとしながふじん ぼしょ
加賀 前田利長夫人墓所

三番碑の向かい側(御廟に向かう方向を見て参道左側)に立っているのが前田利長の奥さんの栄姫(えいひめ)の墓所。織田信長の5女。

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えちぜん ゆうきひでやす れいおく
越前 結城秀康 霊屋

「結城秀康(家康次男)石廟」の表示があります。
重要文化財。 右側が徳川家康の次男 徳川秀康(松平秀康)。左側が母親である、お万の方。
越前から運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)で作られており、当初は極彩色だったとのこと。
中には総金箔の石塔が入っているそうです。(情報元[1])

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ほうねんしょうにん えんこうだいし くようとう
法然上人 円光大師 供養塔

浄土宗の開祖、法然。圓光大師とも表記されています。
「円光」は法然の死後につけられた名前=諡号(しごう)です。

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あき あさのけ3だい あさのゆきなが くようとう
安芸浅野家3代 浅野幸長 供養塔

「2番石」と呼ばれ、奥之院で2番目に大きな五輪塔。
中央が浅野長政。右側が幸長(ゆきなが 2代目)の供養塔。

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かがまえだ 2だいめ としなが ぼしょ
加賀前田 二代目 利長 墓所

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みのかもじょうしゅ まつだいら ただまさ ぼしょ
美濃加茂城主 松平忠政 墓所

奥平忠政(おくだいら ただまさ)とも。
美濃加納藩2代目藩主。

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とよとみけ ぼしょ
豊臣家 墓所


秀吉の墓は中央の大きいもので、1940年(昭和15年)に奉公会という秀吉を信奉する人々が建てた新しいもの。墓の中には、秀吉の衣冠束帯(正装した姿)の木造がおさめられているという言い伝えがあります(情報元[1])。
前面にあるのは、一族の墓です。

「高野山ガイドブック」(金剛峯寺 2015年発行)によると 一族の供養塔や逆修碑は1587年〜1592年にかけて建立されたとあります。
逆修碑(ぎゃくしゅひ)とは生前に建てた碑のことです。

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おだのぶなが・つついじゅんけい ぼしょ
織田信長 墓所・筒井順慶 墓所

織田信長に仕えた筒井順慶と隣同士になっています。
信長の墓所は全国に20箇所以上あるそうです。
明智光秀の墓からは1kmほど離れています。
信長に仕えた筒井順慶と隣同士になっています。


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あさのたくみのかみ ぼしょ あこうしじゅうしちしのひ
浅野内匠頭 墓所・赤穂四十七士の碑

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こうざんおうご しょうにん びょう(もくじきおうごしょうにん れいおく)
興山応其上人廟(木食応其上人 霊屋)

安土桃山時代の僧。「木喰」と表記する場合もあります。
豊臣秀吉の高野山攻めを阻止した立役者です。

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